文久橋の次は松田町の西にある新十文字橋だ。ここも文久橋からすぐだった。 この橋に通じる道は最近できたかのようにまっすぐと綺麗な道だった。その代わり橋の 手前に車を停めるスペースがない。幸い交通量が少ないので路駐する。 車を降りると、雨足が少し強くなっていた。時々車が猛スピードで走っていく。道路際 に立っていると少し恐い。 橋名プレートは風雨にさらされて文字が少し読みづらくなっている。周囲に100選プレート は見当たらない。全景写真を撮って車に戻り、橋を渡る。渡りながらもゆっくりと橋を 観察していくと、渡り終える頃、反対車線側の草が覆い被さった欄干に四角いプレートが 見えた。おっ!あれだ!さっそくまた路駐。車を降りて走り寄るとやはり100選のプレート だった。さっそく写真に収め、車に戻る。 しかし、この十文字という名前。何かいわれがありそうだ。新十文字橋の下流には十文字橋 もある。おそらく名前の由来が絡んでいるのはそちらであろう。しかし、これもまた薀蓄が 見つからない。関係するところで以下のような記述が某Webで見つかった。 遠い遠い昔、この付近を官道が都から東国に通じていました。江戸時代に入ると東海道の 裏街道として整備され、駿河・相模・武蔵の三国を結ぶ重要な道になりました。その途中、 酒匂川に設けられた渡し場を十文字の渡しといいました。最初は下流の足柄大橋付近にあり ましたが、時代とともに移動し、江戸時代の後期には、松田町町屋とこの付近を結ぶ、河原 を斜めに通行するようになりました。夏は船、冬の渇水期は土橋がかけられましたが、対岸 があまりにも遠いので、目印に植えられたのがこのけやきです。二百年以上にわたって、 酒匂川を見つづける生き証人です。 これは十文字のけやきに関する記述で、この辺に古くから大きなけやきがあるらしい。 しかし、橋自体の薀蓄は見つからなかった。